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Fri, 08 May 2020 15:16:04 +0900
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自分の時代を駆け抜けたライダー、加賀真一
ダートスポーツスーパーバイザーの宮崎です。
調べ物をしてバックナンバーをひっくり返して見ていた時に、あるライダーの記事、写真で当時の記憶が蘇ることがあります。
その中でも加賀真一選手は、私の全日本モトクロス取材経歴、つまりダートスポーツ入社からの時間の流れの中に、大きな杭を打つかのごとく、強烈な記憶を植え付けてくれました。
ある流れを追うためにバックナンバーを見返していたんですが、彼の活動は、時代の中に埋もれるなんてとんでもなく、
自分の作った道を堂々と走り抜けている。
そんな印象を、改めて、今回感じたのです。
最初に顔を合わせたのは確か1998年か1999年の全日本最終戦HARP。セキレーシングモトロマンのパドックで、会釈をするくらい。
それまでモトクロスの取材経験がほぼ皆無だった私は、その時に加賀選手の素朴な?人柄が結構印象に残っていたりします。
その時は「ああ、IAライダーなんだな」くらいの知識しか持っていません。
その後、もちろんモトクロスのトップライダーとしての印象が強まっていくわけですが、SRF(スズキ)に移籍し、全日本も真剣に戦いながら、FMXのトレーニングにも情熱を注いでいました。藤沢終了後、ダイスらの車の後について行き、一緒に途中で飯を食い、風呂に入り、秋田まで。
その夜はダイスの家に泊まらせてもらい、加賀兄弟とは翌朝に合流。まだMOSHRIDEも開催される前、エアライブサーカスを前に特訓していたのでした。
なんか、とにかくかっこいいライダーで、だいぶ年上の自分からしたら可愛いところもあるなという印象の加賀選手。
しかし2002年はすごかった。
2003年にカワサキがKX250F-SRを溝口哲也選手に託し、開幕から圧勝。
時代は4ストへ完全移行寸前の2002年。
加賀選手はRM125で、YZ250Fに乗る渡辺学選手らと真っ向勝負。同じくスズキ(マウンテンライダース)の小島太久摩選手らと熾烈な争いを展開しながらも、強さを発揮していきました。
何がかっこいいって、そのスタイル。フリースタイルなファッションを身につけながら、実は超ストイックでレースでぶっちぎる。
その格好良さは、際立っていたのでした。
かくして初のIA125チャンピオンに輝いた2002年。
タイトルの「しょっぱい」という表現は、最終戦前の広島で、緊張のあまり不甲斐ない走りをしてしまったから。
あの時の硬さは、今だに覚えてます。周りからも揶揄され、散々からかわれる加賀選手でした(笑)。
この年のスズキはすごかったです。IA250の成田亮選手やIB125の小島庸平選手もタイトルを獲得。
そしてスズキ躍進復活を遂げた吉村太一監督から、故 馬場善人監督へのバトンタッチが翌年行われました。
馬場監督は加賀選手、そしてメカニックとして砂田彰氏を迎え、ここからまた伝説が始まりました。
砂田氏の語るこの当時の話は、本誌でもインタビューを掲載いたしました。
異端児の砂田氏がスズキという大会社、加賀選手と共に活動し、組織の中で認められ、信頼を掴むまでの話がめちゃ面白くて。
実はシンプルにスナダオートさんを取材しに行ったら、思わずメカニック物語を書くことになり、それがきっかけで『砂煙の追憶』というコーナーが生まれました。
2004年の名阪、ついにIA250で優勝をした加賀選手は、表彰台の上から男泣きし、砂田メカへの感謝の言葉を発していました。
自分を信じてくれてありがとうと。
ファインダーを覗く私も、視界がぼやけました。
北海道に帰るという砂田メカをタンデムして、パレードラップを走る加賀選手。
プライベートチームでも馬場監督から譲られたトラックを黒塗りにして、とにかくかっこよかった。本当にいいコンビでした。
(訂正:砂田氏が馬場監督から譲られた大型トラックはそのままのカラーで使用されていました。加賀選手のK&Sブラック色のバスは別の車両でした。失礼しました!)
そして2008年、現役を引退。
引退レースの最後の一枚を意識して撮ることがあります。これが本当に最後だなと。
熱田孝高選手もそうでした。そしてこの加賀選手のこの一枚が、現役の姿の最後の一枚。
最終戦は各パドックでチャンピオン記念撮影などが行われ、いつしか真っ暗になるのですが、
SUGOの第3パドックを通ると、SRFチーム関係者が名倉氏を中心に皆集まり、締めの挨拶をしていました。
加賀選手には花束が贈られ、男泣き。
あ、またファインダーが滲む。。
藤沢ではぶっちぎって、最後のジャンプでメイクしてクラッシュ。それでも余裕で勝ったり、世界選手権モトクロス(SUGO)ではレースに参戦しながら、昼休みのFMXを飛んだり。
とにかく楽しく、カッコよく、熱いライダー、加賀真一を思い出した今日でした。
昨年はキメラでFMXライダーとして久々に再会、取材しましたが、いつか、またお会いしたいものです。
いつまでも私の中でかっこいいライダーである、加賀真一に。
https://dirtsports.motocoto.jp/e2296.html
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ダートスポーツ アーカイブス,バックナンバーメモリー
Fri, 08 May 2020 15:16:04 +0900
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バックナンバーメモリ〜2003年6月号〜
こんにちは。ちょうど2020年6月号を校了した、ダートスポーツスーパーバイザーの宮崎です。
今回はちょうど17年前のバックナンバー、2003年6月号から。
この号はかなり濃いので、長くなります。
表紙は私が初めて訪れた世界選手権モトクロス・スペインGPからYZ450FMに乗るステファン・エバーツ選手です。
それまでMX-GPの覇者だったスズキのミカエル・ピション選手、普段はのんびりしたタイプの人だったと思うんですが、この時は流石に緊張してました。
怪我からの復帰後、500ccで2年連続タイトルを獲得したエバーツと対決するシーズンでした。
このレース、ピションが優勝し、シルバン・ゲボス監督と抱き合って喜んでいたのを思い出します。
思えばエバーツはリナルディ監督のもとで参戦。かつての名ライダー達の代理戦争というのは、全くもって違うと思いますが、
個人や国籍を超えた戦いの空気をパドックに感じました。
アメリカのモトクロス取材はよく行かせていただいていましたが、ヨーロッパはこの時が初めてだった私。
元世界チャンピオンの渡辺明さん、GPカメラマンの佐藤敏光さんと行かせていただいたのですが、本当に何から何まで感銘を受けました。
その時の思いをコラムに書いておりました。
厳しいグランプリの世界ですが、どのチームも懐が深く、ホームのような感じ。日本から来た私も余裕で歓迎してくれました。翌年も取材したんですが、その時はピションやエバーツらのトレーラーに突撃訪問。もちろん熱田家のトレーラーも。もう、「家」ですね。厳しい戦いの渦中にいる彼らの過ごし方、捉え方を濃厚に感じました。そして、若い125のライダーたちも渡辺さんを尊敬の眼差しを見て、話しかけて来たことも印象的でした。
取材はもちろん、おやつやら、ディナーやらお酒やら、お腹いっぱい色々いただきました(笑)。熱田孝高氏が在籍したCASホンダはイギリスらしく、マフィンとお茶。ライダーがトレーラーで家族と過ごす時間、夜からはきつい酒が出ました(笑)。オランダ系のカワサキはトレーラーにエスプレッソマシンが備え付けられていたり、確か禁煙じゃなかった記憶が、、、。イタリア系のマーチンホンダは、シェフ専用のトレーラーを持参してイタ飯食わせてくれました。主催者は夜中に巨大テントでバーやってました。。。 YOUTHSTREAMは取材班への受け入れも抜群でしたが、トレーラー村への電気供給など、色々と気が利くイメージでした。街を行っても田舎町のホテルの飯も、とにかくスペインという国は美味かった。
レースだけでなくパドックも面白すぎて、たくさん撮りました。ハリー・エバーツさんと渡辺さんのライテク談義も面白かったな〜。
もちろん息子さんのステファンとも会談を取材。
数年間にわたり、熱田孝高選手にはコラムを書いていただきました。メールもネットも発達していない時代、毎月、色々工夫して送ってくれました。ありがたい!
全日本では4スト化の勢いが凄まじいうねりとなっていました。
スズキ、カワサキは共同開発の4スト250ccで参戦。
SRMは福留選手の直前の怪我により、3日しか乗ったことがない4ストでIAデビューした小島庸平選手。再始動できず予選落ちという過酷なデビューでした。
しかし小島選手はIBタイトル、IA125タイトル、IA1もタイトルを獲得と、有言実行、諦めないライダーとして、未だ現役です!
ホンダはCRF250Rを本格参戦。
しかしながら圧勝したのはカワサキ溝口哲也選手! マグネシウムキャブなどSPLパーツふんだんのザワークスマシン!でした。
カワサキ4スト戦列デビュー、いまだにあの光景焼きついています。速かった!
ちなみにスペインではKTMも4スト250をデビューさせていました。マシントラブルもありリタイアとバタバタしてましたが、その後日本のメーカーに追いついて行ったことはご存知の通り。
IA250はまだ2スト時代。Team SUZUKIの成田亮選手、増田一将選手の1-2でした。
当時、エイゴさんにFMXトリックを解説していただいていました!
副編集長の大塚君はアジアインターナショナルエンデューロに参戦取材。
まさか11年後、このレースの主催者が率いるAXCR(アジアクロスカントリーラリー )にのめりこんでいくとは、思いもよりませんでした!
私がスペイン、大塚君がタイ、もう一人町田君という子がアメリカ取材をしている頃、ジャンキー稲垣氏は当時学生アルバイトとして編集部所属。
『SUGO行って来ます!』と、初めて作った取材記事が第一回SUGO2デイズエンデューロ。
そうです、日本のオンタイムエンデューロ(日高は除く)のパイオニア的、歴史的レースです。
色々な歴史が脈々と受け継がれてますね。
こうやってバックナンバーを眺めるのも、忘れてはいけない雑誌の魅力ですね。
https://dirtsports.motocoto.jp/e2239.html
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ダートスポーツ アーカイブス,バックナンバーメモリー
Thu, 16 Apr 2020 16:21:51 +0900
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バックナンバーメモリー〜The Bike 1985年 1月号
こんにちは、ダートスポーツ スーパーバイザー宮崎です。
久しぶりのバックナンバーメモリー。今回は実はバックナンバーではなく、ダートスポーツの前身とも言える
『The Bike』(毎日新聞社)から。
たまに弊社社長が昔の雑誌をどこからか持ってくるんですが、このThe Bikeは社長が編集長を務めた最初の二輪専門誌です。
その後発行会社が変わり『La moto』→『ダートスポーツ』へと受け継がれて来ました。
この1月号も何気なく社長が私の机に置いていったものですが、中身をパラパラ眺めていると、とても惹きつけられる記事がありました。
表紙から『CHALLENGER'85 歩み続ける男たちの言いぶん』と、近年の二輪誌に少ない男臭い冒険の香りが漂っています。
打田稔氏、戸井十月氏、二人とも故人ですが、熱い冒険記事をそこに読むことができました。
その後90年代以降、お二人とも冒険、ラリーストとして確立されていたと思いますが、この本で若々しいお姿を拝見できます。
闇夜のコヨーテ。
すごいタイトルですね。
しかし読み進めていくと、その意味がわかるのです。
1983年、風間深志さんのBAJA1000参戦に影響を受け、初のBAJA1000へ挑んだ戸井氏。プレラン中に致命的なミスルート、ガス欠をおかし、荒野の砂漠で野宿。コヨーテの遠吠えを聞きながら、朝を迎え、12時間歩いてキャンプ地へ戻り、翌日BAJA1000スタート、、、、!という、とんでもない冒険が描かれていました。
こちらは打田氏、そして現在ライテク講師として活躍中の柏秀樹氏、岡村浩司氏によるファラオラリー参戦記。日本人初出場。
8日間4000kmというかなりの過酷さが伺えます。
ラリー、レースはなるべくトラブルを起こしたくないけれど、非常事態における人間の気持ちや描写は、ほかに代えられないものがあります。
ファラオでは灼熱の大地でアルミシートにくるまりながら、冷麦と風鈴の夢をみたり。戸井氏のコヨーテといい、なかなかの極限状況ですね。
そういえば、つい最近、増田まみさんがアフリカエコレースで、砂漠でビバークされてましたね。
さぞかし不安で眠れなかっただろうと、、思いきや、爆睡(笑)だったというのは、本誌4月号レポートの通り。
まみさん、めちゃ強いですね(笑)。
私も毎年アジアクロスカントリーラリーに参戦して来ましたが、思い出すのは、タイの田園でガス欠したことや、カンボジアの少年のトラクターに揺られて脱出したり、警官にぼられたり、エンジンに穴を開けて畑の中でぼーっと空を眺めてスイーパーを待ったり。トラブルのことが多いです。今年は行けるのだろうか。
さて、この本にはライテク記事も掲載されています。なんと日野カントリーオフロードランド管理人の神谷さんがロードレース入門でハングオンの解説をされてますね! うちの社長と懐かしそうに話されていたのは、編集者と執筆者というお関係だったんですね。
モトクロスライテクは故佐藤健二氏の解説でした。
なんと、芹沢太麻樹さん(11歳!)の記事もトピックに。
A級を青くさせた小学生MXライダー、という記事が目立ちまくり。
A級もビビる2連を余裕で飛んだそうな!!
芹沢さんとは今でもダートクールさんのインプレ取材などでお会いします。
いつもシュッとしたライディングで格好いいなと思っています。
モトクロスライダーはやはりかっこよさを追求するからか、かっこいいですね。
https://dirtsports.motocoto.jp/e2237.html
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ダートスポーツ アーカイブス,バックナンバーメモリー
Wed, 15 Apr 2020 19:06:02 +0900
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バックナンバーメモリー
ダートスポーツ編集部には過去号のバックナンバーが揃う本棚があります。
時折過去の本を見ることがあるのですが、懐かしい思い出や、その後トップライダーとなった選手の幼少時代などが見られて、つい時間を忘れてしまいます! ということで不定期にアップするかもしれません。
今回は2007年4月号から。
表紙はスーパークロスアナハイム会場で、練習走行に行く寸前のケビン・ウィンダム選手。
忙しいのに、快くカメラに収まってくれました!
ライダーとして強さを見せていたジェームズ・スチュワート選手に対抗したチャド・リード選手。彼が2020年シーズンまで現役で走っていたことに、改めて驚愕、敬意を感じますね。コロナウイルスの影響で延期騒動となってしまっていますが、最後の舞台を多くのファンの前で披露していただきたいですね!
このアメリカ取材で渡米時に、ナイター練習を見に行ったスターウエストというコースで、マイケル・クレイグさんに声をかけられました。
90年代に活躍したマイケルさんは、ジャパンスーパークロスでの来日の思い出が良いものだったようで、日本人の我々に気さくに声をかけてきたのです。
「俺の息子、メチャ速いので、近い将来プロで走るんだ」と、クリスチャン君(赤いホンダTシャツ着用)や家族、その友人を紹介されました。
実際速いし、上手かったですね。しかも素直でいい子でした!
マイケルさん一家に夕食を食べていけと誘われて、トレーラーの中に入れさせてもらいました。
パスタご馳走様でした。ジャパンスーパークロスの写真が出てきたので、よほど楽しい思い出があったのでしょう。
クリスチャン選手はその後重大な負傷からの復帰や、引退復活を経て、今、下田丈選手と同じGEICO HONDAのメンバーとして活躍中です。
これからも素敵なバイクライフを過ごして欲しいです。
この号で掲載されたダートスポーツ杯多度チャンピオンシップ。50ccで活躍したのは現在IAライダーの鈴村英喜選手。
65ccで活躍したのは大城魁之輔選手!
チャレンジャー80でデビューウインしたのはエンデューロISDEでも参戦した前橋孝洋選手!
また菅原悠花選手も、その後全日本MXレディース、JNCCで活躍中ですね。
多度は小島兄弟や稲垣兄弟など、多くのモトクロスライダーを輩出したコースでした。
その思い出はダートスポーツの中に生きています。
https://dirtsports.motocoto.jp/e2194.html
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ダートスポーツ アーカイブス,バックナンバーメモリー
Mon, 30 Mar 2020 12:29:21 +0900