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砂煙の追憶 VOL.10 高濱 龍一郎 [たかはまりゅういちろう] 前編

砂煙の追憶 VOL.10 高濱 龍一郎 [たかはまりゅういちろう] 前編
ジャパンスーパークロスを激走するハマー。「バイク代が未払いだったので、なんとか賞金で支払いました」と、気合いの理由を語る



砂煙の追憶 VOL.10 高濱 龍一郎 [たかはまりゅういちろう] 前編

アメリカで修行した思春期。その後大怪我や金欠のピンチに見舞われながらも、杉尾良文のもとで実力を伸ばし、ついに全日本チャンピオンまで上り詰めた高濱の人生。モトクロスへの貢献と若手の指導に、現役時代から力を入れてきたハマーの人生観をここに紹介しよう
インタビュアー/DAIGO MIYAZAKI  
タイトルデザイン/浜田具秀



砂煙の追憶 VOL.10 高濱 龍一郎 [たかはまりゅういちろう] 前編
アメリカでは憧れのマクグラスの練習を間近で見学。「すっごいいい人でした」


砂煙の追憶 VOL.10 高濱 龍一郎 [たかはまりゅういちろう] 前編
小学6年生。足も届かないうちからNBを走っていた



マクグラスの練習を真似した10代。
アメリカで吸収しまくった


 幼い頃からホンダ一筋。苦労の末にトップライダーまで駆け上がった男。ハマーこと高濱龍一郎の物語。しかしこの男の話はいつも面白くドラマチックだ。悲願の全日本チャンピオンを獲得したことでさえ、彼のモトクロス人生のひとつの通過点に過ぎないと言ってしまってもいいくらいに、高濱の視線の行方は遠く、いつでも俯瞰で物事を見続けている。自分に対して厳しく、後輩を育てる志の深さ、世間にモトクロスの魅力を知らしめようとする情熱はどこから来るのだろう。前編の今月号では、その原点を探っていく。
 高濱と二輪の出会いは2歳半までさかのぼる。すでにこの歳に友人の自転車に乗っていた高濱は、3歳の頃にはQR50に乗れていた。もちろん木に激突したり、暴走したりと、色々あったようだが。途中挫折した時期を経ながら、小学3年生で本格的にモトクロスを始める。そこで乗ったのがCR80R。カシオカップでは2年目にチャンピオンを獲得。小橋雅也や藤井大介などマウンテンライダースの速いライダーの姿を見て育った少年、高濱。
「15歳でIAに上がったとき、大沼さん(現スージーディジット代表)がアメリカ行きのチャンスをくれたんです。だからIAに上がってから日本でレースをしていないんですよ。日本で走るよりもアメリカに行きたかった。世界の凄いライダーと走りたかったんです。
 アメリカでは約2年活動することができました。いろいろありましたよ。ホンダのコースに入って走って警察につかまったり。そのときに沙織ちゃん(現チームハマーの植村沙織マネージャー)のお父さんに助けられました。
 当時走っていたライダーですか? なんといってもジェレミー・マクグラスですよ。僕の大好きなマクグラス。オープンエリアで練習しているのを間近に見させてもらえました。彼が帰ったあとに真似して転んだこともあった(笑)。彼は隠すことなく見せてくれましたから、色々自分なりに考えて走って上手くできたり、転んだりしました。フープスも上手に走れるようになりました。骨折して腕があがらない状態でバイクを車に積んで帰ったりね。まあ色々ありました。
 マクグラスが所属していたピークプロサーキットホンダのバディ・アントゥネスとレース中に当たって、ふっとばしてしまったんですよ。そうしたら、レースが終わるなりアントゥネスに殴られそうになって。マクグラスが『もういいじゃないか』と仲裁してくれたこともありました(笑)。ガイ・クーパーのコースに行ったとき自分のバイクが故障して、クーパーのバイクを借りて走ったこともあったな」
 1992年、高濱はスーパークロス125㏄ウエストシリーズに参戦し、ランキング30位で終えた。
「結構アメリカではエンジョイしましたね。思春期だったので自分の庭みたいな感覚もあって。いい経験でした。色々なことを吸収する時期だったので、その後の技術はそこで作られたといってもいいです。どんな路面でも走れるアメリカンライダーの適応力みたいなものも見て来たし、とにかくいろいろな練習をしてきました。この練習がこういうときに役立つとか、大げさに言えば哲学というか、そういうことが今の指導に繋がっているんだと思います」

砂煙の追憶 VOL.10 高濱 龍一郎 [たかはまりゅういちろう] 前編
「これは家を買いにいくときで、6千万円も出していたら周りの人がビックリして寄ってきたら困るので、記念のワンカットのみ。24歳だったかな。このときはTV、一般誌、本業のモトクロスでいっぱい働いていましたね」


砂煙の追憶 VOL.10 高濱 龍一郎 [たかはまりゅういちろう] 前編
「16歳の僕にピッタリなんてね(笑)。マイカーのアストロバンです。これで全米を転戦しました」



帰国デビュー戦でまさかの大ピンチに陥った

 日本に戻った高濱は18歳になっていた。メキメキと実力を身につけて帰国した高濱を待ち構えていたものは、甘くない現実。いや、すでに家を出て自活していた若者にとっては、それ以上に過酷な運命が待っていたのだった。
「日本に戻ってからのデビュー戦が1月3日に開催された鈴鹿の新春オールスターモトクロスでしたが、その前日の練習走行でぶっ飛んで脳挫傷になりました。意識がなくなる重傷でしたが、奇跡的に復活することができたんです。でも脳がぶれて歩けないほど重傷だったので、もちろんバイクも乗れませんでした。
『もう駄目だ』と思いました。車いすの生活でしたが、なんとか病院の廊下の手すりを使って歩けるようになって、初めて階段を降りた瞬間に、たぶん振動でめまいが起きて、海の上に立ったときみたいにフワフワしてしまったんです。地面が見えないんですよ。目で路面を追いかけられない…。
 そこからリハビリを続けて、なんとか回復してバイクに乗ろうとしたとき、もう周りは僕がアメリカで走ってきたことなんて誰も知らなかった」
 すでに家を出て独立していた高濱は、仕事に明け暮れて、自分の力で生活しようとしていた。
「昼間は肉体労働をして、週に3日はラーメン屋で働きました。バイクに乗りたかったからカブで出前をしていました(笑)。とにかくお金を稼がなければいけない。いま必要なお金のことだけで精一杯でした。そういう生活をずっと続けてきた。
 あるときジャパンスーパークロスで賞金を稼ぎたくてエントリーしたんですが、バイクはボロボロ、結果も散々でした。全然走れなくて。アメリカにいたときみたいに走れませんでした。精神的にはきついですよ。誰にも助けてもらえなかった。でも僕はモトクロスをやりたかった。バイトも簡単には休ませてもらえないじゃないですか。たまたまバイクをやっている家の社長さんの元で働くことができて、レースの日は休ませてもらえることができるようになりました。それがあったから、続けていけたんです」





他に欲しいものなんて、
なにもない。
モトクロスができれば、
それだけで良かった。






もう終わりだ…。
諦めかけたときに差し伸べられた「救い」


 高濱はIA250、いまで言うIA1にエントリーしてレース活動を続けようとしていた。しかし遠征費は高濱に重くのしかかる。
「なんとか全日本の全部のコースを走ってみたかった。北海道はIBでも走ったり、連れていってもらうこともあったけど、藤沢はまだ行ったことがありませんでした。そこでチームエポムの杉尾良文さんの息子さんがレースをしていたので、車に載せていってほしいと頼んだんです。『駄目だ駄目だ』と断られました。30回くらいお願いしにいって(笑)、最後は連れていってもらえることになりました。道中はもう嬉しくて寝れませんでした。どんなコースかな? なんて考えたりして。
 でもいままでまともに練習もできていないし、体力も足りなくて、結局予選落ちで終わったんです。杉尾さんのチーム員も予選落ちでした。土曜の早朝にコースに着いて、その日の夕方には帰ることになりました。『ああ、これで俺のモトクロス人生は終わったな』と思いました。
 もう無理やわ…。こんなに遠くまで遠征して、周りに助けてくれる人もいないし、予選も通らない。お金だって半端なくかかる。もう続けられへんわって…。
 そんなとき杉尾さんが『おまえ、そんなにモトクロスが好きなら、うちのコンテナに寝泊まりしていいぞ、3度のごはんだけ食べさせてあげるからモトクロス、頑張ってみろ』って言ってもらえたんです。すぐに『やらせてください』って返事しました。仕事もすぐにやめました。他に欲しいものなんてない。バイクに乗れれば良かった」
 そこから高濱の生活は変わった。毎日トレーニングの日々。
「頑張りました。頑張れたんです。…そうしたら…速くなったんですよ。めっちゃ頑張った」
 いまでも思い出すと涙がでるほど嬉しかった杉尾の優しさ。一流トップレーサー、高濱が生まれる土壌が、このとき生まれた。

HRCに入ってからも終わることのない闘いへ

 杉尾の尽力もあり、チームHRCのサテライト契約ライダーになった高濱。契約金が入り、4万1000円のワンルームマンションに引っ越した。
「サテライトマシンは、自分がいままで乗ってきたバイクとは雲泥の差でした。
『こんなん無敵やん。むっちゃ乗りやすい!』
 当時活躍していたどのライダーにも負ける気がしなかったです。どんだけ速くて乗りやすいんだ!? というような感じでした。いつでも勝てる自信がありました。それまでのどん底の生活から比べると完璧な体制でした」
 19歳、1995年のことだ。チーム杉尾で活動開始した高濱は、成績が安定していたわけではなく1995年はランキング9位、96年は20位に落ちたりしたが、どんな辛いことも辛いと思わなくなった。乗り越えられた。
 1998年、23歳でチームHRCのライダーに抜擢された。ワークスチームはチャンピオンをとるための舞台でもあり、マシン開発をおこなうチームでもある。
「その年から自分で色々なテーマを持つようになりました。速さはアメリカで養ったものが大きい。部分的に速く走れる能力をどう使うかがテーマでした。自分で勉強することも大事だと思い、ノートをつけて栄養やトレーニングの勉強をしました。2年目は余分なものを省けたので、ものすごく自分の時間ができましたね。『この部位を鍛えたらこうなる』とか、いろいろなことが分かってきました。余分なことをしないから、体も疲れないんですよ。いまでこそ走行中の心拍数をはかったりしていますが、当時は誰もやっていなかった。そう考えると先取りやね(笑)。体はどのように疲れるのか。コースのどの部分で心拍数が上がるのか。そういう解析に対しても関心がありました。乳酸値を計る機械も自分で買いました。
 市川監督とはその部分で本気で喧嘩したこともあります。『お前、バテたレースしたら首だからな!』って怒鳴られたりして。そう、あれは名阪のレースのあとですよ。僕も『市川さん、そうじゃないです!』みたいに返して。市川さんの家に呼ばれてよくご飯を食べにいく仲でしたけど、引けることと引けないことがある。マシンに関しては凄く感謝していた。でも自分の体は自分でやれるところまでやる! という思いがあった。それをぶつけたら最後は『分かった!』と言ってくれました。そんな市川さん、やっぱり好きですね(笑)。僕も凄いプレッシャーがかかっていたけど、乗り越えなくてはいけないものでした」

全日本チャンピオン獲得
そして、いま思うこと


 1998年にランキング7位、翌99年に6位。そして2000年、ついに高濱はライバルのチームメイト、熱田孝高との激戦を制して全日本チャンピオンに輝いた。チームHRCにとっては1991年の宮内隆行以来9年ぶりのタイトルだった。
「熱田選手のことは意識してましたよ。テストで僕がタイムを出すと、彼も出してくる。それもコンマ刻みなんですよ。あの年の成績を見ると、僕がヒート1で勝ったらヒート2は熱田が1位とか、そんなレースばかりでした。なかなかのデッドヒートでした。なんとか勝ちたいと思いました。口ではなんて言うか分からないけど、熱田も僕のこと意識していたと思うんですよ」
 その翌年2001年は高濱にとってニューマシンの開発を託されるシーズンとなった。
「市川さんは新しい課題をくれました。僕が開発に関してどんな評価をされたかは分からないけど、一生懸命やりました。HRCはそうやって戦えるいいチームでした。
 HRCは何でもやってもらえる。どうにでもなるので、自分次第で良くもなるし、悪くもなる。元々生活が厳しかったので、環境の良さに対してありがたいという気持ちが強すぎてなにも言えなかった。いまではもっと言えればよかったと思います。環境は本当に最高、本来は勝つためのチームなんだから、何でも打ち明けて解決していけばよかった。でも新しいマシンをどうしても乗りこなすことができなくて、成績も落ちていきました」
 その後高濱は2002年にはランキング3位、HONDA DREAM TEAMで走った2005年はタイトル争いを演じてランキング2位を獲得する活躍を見せた。

砂煙の追憶 VOL.10 高濱 龍一郎 [たかはまりゅういちろう] 前編
いまはない鈴鹿サーキット。#23ハマーのIA250cc初優勝


砂煙の追憶 VOL.10 高濱 龍一郎 [たかはまりゅういちろう] 前編
ジュニアクラス時代、元木パパのカシオカップで最大のライバルだった藤井大介。「このときは誕生日、たいがい彼のお店で飲みました。多分20歳の頃です」



周囲の反対を押し切って立ち上げたチームハマー

 話は1999年に振り返る。現役ライダーとして最も脂の乗った時期に、高濱は自身のチーム『チームハマー』を立ち上げた。4トントラックを購入して全日本会場入りをして、HRCのトラックとチームハマーのトラックを行き来する姿を見せた。当時、現役バリバリのライダーがチームを持ち、若手を育成すること自体が珍しく、会場でも異彩を放っていた。高濱はその当時も本誌取材陣に対して、チームの意義を熱く語ってくれていたが、いま改めてチームハマーのことを聞いてみよう。
「自分の成績が安定していくと同時に、『モトクロス界に対してなにかを返さなくてはいけない』という気持ちも、強く持ち始めたんです。それは杉尾さんに面倒をみてもらった影響が大きいと思う。自分の子供でもないのに、よく受け入れてくれたと思いますよ。当時はいまほど深くは考えていなかったけど、若いなりに、この世界でなんとしてでもやっていかなくてはいけないと、そういう固い決心がありました。
 HRCに入って2年目。契約金でトラックを買いました。アメリカを見て来て、日本も盛り上げたかった。みんなに『自分の生活がおろそかになる』と反対されましたけど、自分がその中心になってやらないといけないと思いました。マクグラスは誰がいても気にせず練習して色々見せていた。そのスタイルがモトクロスを広めるんだと思ったんです。グズグズやっていると小さくなる。要はしんどいかしんどくないかということですけど、僕はしんどくても頑張れると思っていたんです。
 イベントに呼ばれたら必ず参加していたし、スクールの講師もつとめました。とにかくファンも大切にしないといけないと思いました」

かつて杉尾が自分に対してやってくれたように…

 かつてチームハマーに所属していた杉本高規。4年間IBで走り、引退を決めていた杉本だが、高濱は「一年頑張ってみろ」と声をかけた。ホンダに乗り換え、高濱の元で衣食住を共にし、練習に励む姿を、本誌は密着取材したことがあるので記憶している読者も多いことだろう。高濱の指導は厳しかった。当然自分に対しても厳しく、その姿を間近に杉本に見せて、学ばせようとしていた。
「いままで4年もやって、予選も通らなかった子が開幕戦で優勝、一年でここまで変わったんです。結局、ダートスポーツで元木さんがクーパー・ウェブの話をされていたように短い期間でライダーは変わることができるんです」
 かつて杉尾が高濱に対してそうしたように、高濱は後進を育てることに力を入れてきた。
「実際に自分がやってみないと、人の想いって分からないんです。杉尾さんがどんな気持ちで僕に対してやってくれたのかなって。自分もやらないと世の中は何も変わらない。自分だけでとどめてしまうと、そこで終わってしまうから。感謝の気持ちを次につなげないと。しょせん人なんて砂浜の一粒の砂です。なにが正しいとか正しくないとかじゃなく、自分の生き方としてそこは守っていきたい。未来につなげていきたい。モトクロスはこんなにいいスポーツなんだから!」
 高濱、そしてチームハマーの情熱はモトクロスの未来に繋がっていく。(次号後編に続く)



◎記者の目

名阪の会場でチームハマー初の4トントラックを見せてもらい取材した。現役バリバリ、これから頂点を狙っていくというライダーがチームを結成して若手を育成する。当時、筆者は驚いたのだけど、ハマーの熱い話を聞いて色々と納得、感心した。その後大河原功次や成田亮もチームを結成したことを考えると、確かにパイオニアだった。ハマーのことを記事にするとき、それはハマーのレーサーとしての活動だけでなく、後進の育成や、世間、行政へのPRといった活動も絶対に抜きにしては語れない。だから今回は2ヶ月に渡って記事をお贈りすることにした。

◎PROFILE

高濱龍一郎(たかはまりゅういちろう)
1976年3月2日生まれ。IA昇格と同時に渡米し、1992年AMAスーパークロス125ccウエストシリーズランキング30位を獲得。1998年にTeam HRC入りを果たし、2000年に全日本モトクロスIA250ccチャンピオンを獲得。そのシーズンオフに開催されたモトクロス・デ・ナシオンフランス大会では熱田孝高(250cc)、成田亮(125cc)と組んで(高濱はOpen)過去最高タイの6位を獲得。1999年にチームハマーを結成

月刊『ダートスポーツ』2015年2月号(http://www.zokeisha.co.jp/dirtsports/archives/13346
に掲載された記事となり、情報は発売日当時のものとなります。




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